エスプリデッサンでは人間の心の基本構図を用いて、エスプリ画を描いたり、自分を含む人間の心を観察したり、あるいは、社会の様子を分析します。
【心の基本構図】
□心の中心:自己意識
□心の周辺:6つのマインド機能(直感・精神・思考・肉体・愛情・集団)
私たちは物事を見て考えるとき、どのマインド機能を重視しているかによって、物事のとらえ方を変化させております。
たとえば、街にあるおしゃれな「カフェ」を一つの作品として観察し、「カフェにとって大切なものは何か?」をマインド機能ごとに考えてみましょう。
◆直感機能;店の雰囲気作りを創造
◆精神機能;静かで快適な環境の追求
◆思考機能;建築と火災防止の知恵
◆肉体機能;美味しい飲料の選択
◆愛情機能;男女愛の尊重、家族の楽しみ
◆集団機能;集団マナーの保持
という具合に、観察者が「どのマインド機能を主に働かせるのか?」により、カフェ自体のとらえ方も異なってきます。言い換えると、すべてのマインド機能を働かせて全方位的にみると、より具体的に対象を理解できるようになります。
人間は人種、民族、家族の一員として、祖先から遺伝されたものを内部に保っており、過去の生活的関連から生じた意識がいわば内奥において総括されている。その人間の心の基本構図を理解できたなら、今度は意識の抽象化というテクニックを用いて、心の構図をイメージにより広げて、意識を拡大させることができます。
たとえば、個人レベルからイメージを広げてゆくと、札幌出身の私は北海道民(地域レベル)であり、さらに広げると日本人(国家レベル)であり、さらに広げるとアジア人(民族レベル)、さらに人類(人間レベル)、生命(生物レベル)という具合にイメージを拡大することができます。
人間の心の構図(1つの意識と6つのマインド機能)は、イメージレベルが異なる世界でも同じように存在します。そして、私たちは心の世界を反映させつつ、世界を作り上げるため、人間の手が加えられた社会には常に、人の心が社会に与えた影響を確かめてみることができます。
たとえば、日本人の意識が生み出すイメージを国レベルにまで抽象化して、心の基本構図が、どのように日本の国家を作り上げたのかを考えてみましょう。
●自己意識;内閣
◆直感機能;特許庁、環境省
◆精神機能;外務省、法務省
◆思考機能;文部科学省、財務省
◆肉体機能;農林水産省、警察省、防衛省
◆愛情機能;厚生労働省 (労働部分は集団)
◆集団機能;経済産業省、国土交通省
という具合に、心の基本構図に応じて、国の仕組みが生まれている事実を確認することができます。
この場合、イメージの抽象化により見つけ出したこの国の仕組みや活動実態が、適切なのかを心の構図を通じて検討することもできます。
たとえば、思考機能が生み出した財務省には、「真実の追及」という本質的な役割があるため、財務官僚は、第一に「真」を重んじるべきです。にもかかわらず、財務官僚らが国会の答弁の場で「偽」を告げたり、真実を曖昧にしたりすれば、現在の財務省は根源的な問題を抱えている可能性がある、と分析することができます。
このように、人間の心が作り上げた世界をイメージの抽象化によって検討してみると、現在の実態をより本質的に検証できるようになります。
更に、ここでは思考機能が受け持つ科学技術について考えてみましょう。人間の思考機能は、合理的に真偽を判断するのみであり、「人を騙せば金儲けができる」という事実を”真”と判断すれば、そう行動しようとする一面があり、人の知性は、視野が狭く欠陥もあります。
また、人間の思考から生まれる科学には、大きなものを細かく分断していく性質があり、科学が高度に発達すればするほど、産業も複雑に分業化されていきます。その結果、現代社会ではどの労働者もが、一つの専門分野に属していると言えるくらいの専門技術を用いるようになる一方、他の専門家の活動内容が理解できないようにもなります。
つまり、私たち現代人は、生活における多くの部分を他分野の専門家たちに委ねて暮らしており、「それぞれの専門家が適切に自己の責任を全うしてくれるだろう」という人々の道徳的な期待によって営まれているのが実情です。
一方、高度な科学技術が人類の現実脅威になった今、国家で不正を働く醜勢の危険度は、かつてないほどに増しています。醜人たちは複雑な社会になって、国民の目が届きにくくなったことを幸いとして、十分な議論がされないまま法律を勝手に作ることが容易になったからです。
また、不正を働く醜人たちは、自分たちの立場が不利になれば、「記憶にない」、「書類は破棄した」、「病気になった」と逃げ回る手段ばかりを巧妙化させ、責任の所在を意図的に不明確にしようとします。
不純な感覚で、不正を働く知性的な人ほど厄介であり、恐ろしい存在はないという真実を私たちは理解すべきです。その本当の恐ろしさは、不正行為そのものよりも、彼らが不正を隠蔽しようと周りを巻き込みながら延々と続ける愚策・偽報から進行する社会システムの劣化です。
権力者に都合の良いことばかりを唱える御用学者(真のふりをした偽)すら存在し、マスコミに姿を現して、大げさなパフォーマンスで人々を迷わせます。私たちは芸術的な表現を通じて、「汚職人らの実態、経済動向、国民の生活などに関心を払い、「健全なルール制度により、平等で自由な暮らしが保証されているか?」を確かめてみるべきです。
民主的な投票により、私たち国民が政治家を選出して強い権限を与える以上、その後の活動が正しく行われているかを私たちは当然にチェックする必要があります。選挙を通じて多数派になった政治家たちが、国会を通じて何をやってもかまわないという訳ではありません。
一方、未知の疫病などに関する国会議論や政策判断に絶対的な正解があるわけではなく、その効果や成否は、時間が経たないと分からない面もあります。だからこそ、行政のプロセスを記録した公文書の保管や国民への説明責任が必要になります。信頼できる記録が残っていることが国家運営の評価には不可欠であり、適正に情報公開されることで、私たち国民は、国家運営の実態をより鮮明に理解し、政策修正の糸口を探れるようになります。
科学の暴走の防止を考える場合、まず生命活動における認識の基礎と思えるものは、芸術の中で開示されることを再認識しましょう。芸術家らの純粋な美的感覚は、自然の法則を認識し、命の尊さを訴え、人々が向かうべき方向を予見してくれます。
芸術家が社会を刺激し、賛否を巻き起こし、未来の方向性を見据えたなら、次に、社会をどう動かすかを規定するのかを哲学者が考えるでしょう。その哲学が、科学技術が安全かつ倫理的な方法で使われるようにルールを定めると、そのルールの中で、科学者たちが真実の探求に励むと、科学は正常に発展し、新たな知識技術を社会に供給するようになります。
人々の美意識が集団の智恵となって、国家の良識あるルールを生み出し、科学の暴走を止められる制度作りに取り組むことで、社会の安全、地球の平和、生命の繁栄は成り立つのです。