20世紀の哲学者ミッシェル・フーコー(フランス)は、「自己への愛着こそが狂気の最初の徴表であり、人間が自己に愛着していればこそ、人間は過ちを真実として、嘘を現実として、暴力および醜さを正義および美として容認するのだ」と告げました。
彼の述べた「暴力および醜さを正義および美として容認する」とは、どのような意味でしょうか? ここでは、醜・悪・偽による邪悪な命令の影響という観点から考えてみましょう。
歴史上、国家システムの中で醜い権勢が私腹を肥やし、貧しくなった民衆の不満が高まる場合、民衆の怒りの矛先を変えるため、醜人らは隣国(他民族)を激しく批判して、外交紛争や戦争を意図的に引き起こすことがありました。
不正で私腹を肥やした醜人らは、疑いの目を向けてくる善良な人々を敵視しつつ、「国内の疲弊は隣国が原因だ!」と主張。純粋な青年たちを騙して戦場に送り出す具体的な準備を始めます。
●偽の勢力【研究・製造】
「破壊兵器を作って経済需要を喚起し、金を儲けてやる」
⇒ 高額兵器の製造(戦争に勝っても負けても、金さえあれば逃げられる)
●悪の勢力【政治・行政】
「非常事態宣言をすれば、思い通りに戦争体制を作れるだろう」
⇒ 偏狭的な政治家を担ぎ上げて、冷酷な独裁者を作る(戦争責任をなすりつける)
●醜の勢力【報道・芸能】
「戦争に反対する国民は、邪魔なので排除してやる」
⇒ プロパガンダの推進と情報操作(反戦者を悪者に仕立てる)
既存の国家システムの破壊を目論む醜人らは、「邪悪な命令」を次々と出し始めます。プロパガンダを通じて醜い芸術(生命を破壊する芸術)を量産し、戦場の暴力を「正義」、生命の破壊(醜)を「美」として国民的な英雄を創り出し、大々的に宣伝する。
その印象操作と同時に、社会的なストレスは隣国の悪辣な陰謀のせいだと敵を憎むような世論誘導を繰り返して、純粋な青年たちの愛国心を煽ります。
一方、敵となった隣国に潜む醜人らも、同じことを始めます。両国の醜人たちは兵器製造の特需により私腹を肥やすと同時に、今までの鬱積を晴らすかのように「民衆の苦しみは隣国のせいだ!」とかん高い声で喧伝し、外交紛争を意図的にこじれさせるため、戦雲が垂れ込めます。
※プロパガンダ:特定の思想によって個人や集団に影響を与え、その行動を意図した方向へ仕向けようとする宣伝活動の総称。
両国の醜人たちは、青年志願兵を集める一方、自社工場で兵器の生産を終えて、大金が手に入ると第3国に不動産を購入し、敗戦した場合の逃走支度を終えます。それから、国家の非常事態宣言を発令し、国民の言論や集会、出版などの自由を一切制限し、インターネット上の表現の監視や規制を強めて戦争の準備を進める。
その宣戦布告の日、醜い勢力は、「多くの爆撃を通じて、戦場にいる野生動物たちは死ぬだろう、そうなっても仕方がない」という未必の故意を抱くことで、醜の意思を明確にします。
実際、戦闘が始まると、激戦が続く中、海・沿岸・草原・川・森・山・湖など、あらゆる環境の生態系の破壊が進行し、数え切れないほどの野生動物たちの「命」が消滅してゆく。
そして、戦争に係わった人間たちは、美しい自然や生態系の破壊活動を通じて、つまり、自身の生存欲求が満たされず、また、子孫の繁栄を脅かす地球環境の破壊を通じて、自分たちの美的感覚を鈍麻させていきます。
美的感覚が鈍麻して、本当の自分からかけ離れるようになった人間は、美しさへの感動がどのようなものかを忘れて、自然の美しさを楽しめなくなります。そればかりか、心の世界で感覚的な説得力が得られなくなるため、「自分には何が足りないのか?」「自分に何が起きているのか?」さえも分からなくなってしまうでしょう。
人間の自己意識は、直感の成立に直接関与していないが、直感的感覚は人間の心の世界で純然と生きている。その感覚が心の世界で正常に働くには、自己意識の感性を高め、清めるような美の力、生命を繁栄に導くような霊妙な躍動力が求められる。
戦場の青年兵士たちといえば、生きるために嫌でも死の淵近くまで行かなければならない。仲間がどんどんと戦死する絶望の中、偏狭な将校から何度も何度も突撃を命令される。プロパガンダに煽られ、無敵の英雄にあこがれた兵士らは、勇気を示す以外の感情表現を知らず、戦況の悪化とともに心がひどく混乱してきます。
やがて、戦況が長引く中、ある兵士の自己意識は、暴力だけが支配する現実世界で、絶望的な無感覚状態に陥り自暴自棄となって、さらなる突撃戦に挑む。
また、ある兵士は、戦場で必ずしも悪人ではない人間を殺傷してしまった、あるいは、戦友がなくなったのに自分だけが生き残ってしまったという罪悪感が鬱病へと変わり、自身への信頼を失うことで人生の敗北者となる。
さらに、ある兵士は戦っている相手は、誰かの息子であったり、子どもや家族のいる父親であったりするのだと気が付き、戦争の意義を疑い始める。
醜い権勢が、国家システムの不正操作により私腹を肥やし、経済を悪化させたことが原因で不正の証拠隠滅と私財保護の動機が生まれ、自分たちの資産を守るために民衆にとって無意味な戦争が計画される。
大きな権力を利用して、敵となるべき「悪」を作り上げ、国民の権利・自由・命を奪い、戦上の兵士らに対し自然からの分離の苦痛・悲しみを味合わせ、さらに、多様な野生動物の命までも消滅させた上で、自らの安泰を図る。
この醜の極みは、純粋な青年たちを醜い芸術で操る醜人たちが、その虚像を信じて操られる青年兵士が国家を混乱させるほどにほくそ笑み、さまざまな責任を押しつけて面白がるところにあります。
戦争を仕掛ける醜勢は、民族の歴史を引っ張り出して、「善と悪の戦い」という構図を自分たちに都合良く作り上げただけなので、本当のところ、その戦いには正義も大義も存在しません。
原始時代から集団生活を営む人々は、自然の恵みを分かち合うことに感謝し、「共同社会の安泰」を願いながら、「自分がされたくないことを他人にしない」という人間としての道徳観を育ててきました。それ故に、醜人らの自己意識に生じた独占欲と道徳心の欠如は、共同社会の破壊に直結する性格にあります。
一方、国家における共同社会の実体は、「生産・運搬・交換・消費・廃棄・リサイクル」といった営みにて構築されており、この営み自体は、どのような国家体制(神権政治、君主政治、民主政治、共産党政治、専制政治など)であっても存在します。
よって、どのようなタイプの国家でも、権力者たちがシステムの中で不正を働いて国家を腐敗させ、社会的なストレスが高まると、醜い独裁者が個人的な問題と政治的な問題を結びつけて戦争を始める危機が生まれます。
結局、現代の戦争の根本原因は、本筋的な善悪の問題から来るものではなく、権力者らの歪んだ感覚が生み出す美醜の問題から来ると言えます。
大昔、天災や飢饉が原因で自分の家族たちを守るために起こした争い、子孫の繁栄を願った戦いには美意識から生まれる感覚があり、善悪の根拠も明確でした。
しかし、醜い者たちが自分たちの優越性を乱用し、その穴埋めとして醜い戦争を起こして、侵略の事実を歴史に刻み込むと、人々は真実を見失うばかりか、不合理な抑圧への憎しみ、死の恐怖と絶望を抱き、傷つけられた誇りに心をむしばまれ始める。
このような戦いには確固とした善悪の根拠がない。そればかりか、戦いの不純さを感知し、それを表現した芸術家らは醜い勢力に迫害されてしまうため、人々は当地域の外交史上、どこが最初の悪で、何が争いの根本原因かも分かないまま、報復的な戦争が繰り返される土壌になってしまうでしょう。