地球にある人間社会は、幾世代にわたって人々の感性・心性・知性が係わることで発展してきました。ところが、現代の社会においては、生活の利便や企業の収益に貢献する知性が最も重視され、知性が生み出す科学が、心性が生む道徳や感性が生む芸術よりも重んじられています。
一方、人の知性は、視野が狭く欠陥だらけのもの。合理的に真偽を判断するのみであり、「人を騙せば金儲けができる」という事実を”真”と判断すれば、そう行動しようとする一面があります。
知性的な人は、とかく利害を優先しますが、お金は「経済的な価値の尺度」を示すだけのもの。感性的なアーティストが生む出す作品は、「内的な価値の尺度」を有するのでお金で測ることはできません。
人の知性は、大きなものを細かく分断していく性質にあり、科学が高度に発達すると、産業も複雑に分業化されます。その結果、現代社会では誰もが一つの専門分野に属していると言えるくらいで、他の専門家の役割を単純に把握できない。
現代の私たちは、生活における多くの部分を他分野の専門家たちに委ねて暮らしており、「それぞれの専門家が適切に自己の責任を全うしてくれるだろう」という人々の道徳的な期待によって営まれているのが実情です。
国家の「法の樹木」に巣くう醜勢の危険度は、かつてないほどに増しています。高度な科学技術が人類の現実脅威になった今でも、醜人たちは昔ながらの不正感覚で国家システムに関与するからです。
複雑な社会になり、国民の目が届きにくくなったことを幸いとして、十分な議論がされないまま法律を勝手に作ることが容易になりました。
さらに、醜人たちは、自分の立場が不利になれば、「記憶にない」、「書類は破棄した」、「病気になった」と逃げ回る手段ばかりを巧妙化させ、責任の所在を意図的に不明確にできる社会制度に変えています。
不純な感覚で、不正を働く知性的な人ほど厄介であり、恐ろしい存在はないという真実を私たちは理解すべきです。その本当の恐ろしさは、不正行為そのものよりも、彼らが不正を隠蔽しようと周りを巻き込みながら延々と続ける愚策・偽報から進行する社会システムの劣化です。
権力者に都合の良いことばかりを唱える御用学者(真のふりをした偽)すら存在し、マスコミに姿を現して、大げさなパフォーマンスで人々を迷わせます。
私たちは芸術的な表現を通じて、「法の樹木」に寄生する汚職人らの実態、経済動向、国民の生活などに関心を払い、「健全なルール制度により、平等で自由な暮らしが保証されているか?」を確かめてみるべきです。
民主的な投票により、私たち国民が政治家を選出して強い権限を与える以上、その後の活動が正しく行われているかを私たちは当然にチェックする必要があります。選挙を通じて多数派になった政治家たちが、国会を通じて何をやってもかまわないという訳ではありません。
一方、未知の疫病などに関する国会議論や政策判断に絶対的な正解があるわけではなく、その効果や成否は、時間が経たないと分からない面もあります。
だからこそ、行政のプロセスを記録した公文書の保管や国民への説明責任が必要になります。信頼できる記録が残っていることが国家運営の評価には不可欠であり、適正に情報公開されることで、私たち国民は、国家運営の実態をより鮮明に理解し、政策修正の糸口を探れるようになります。
地球の美しい環境が取り返しの付かない事態になる前に、私たちは美しい芸術を推進する必要があります。
私たちの美意識は、地球の姿や人々の行為が美しいことを願い、地球上のすべての生命を繁栄に導くために、人間社会のあり方を正そうとします。私たちの感性が、朝焼けの輝きに涙するのは、それが「本当に美しい」からです。
生命を繁栄に導く純粋な美的感覚は、「芸術的な表現」を通じて、人のあるべき心を育てる一方、現代の人々が向かうべき方向を予見し、善い哲学を導いてくれます。
その哲学が、今の時代にふさわしいルールを構築する。そして、そのルールの下で、学問に励む人々は、新たな発見をし、健全な科学技術の発展に努める。
つまり、人々が美意識を最優先させて国家の運営に取り組むことで、美しい芸術が、良識のあるルールを導き、科学の暴走を止められるようになるのです。