
生命は、何十億年もの歳月をかけて絶滅と繁栄を繰り返しながら、自らを存続させてきました。無数の生物が生まれ、死に、その積み重ねの上に今の人間が存在しています。そして人間もまた、親から子へ、子から孫へ、知恵や文化や愛情を受け渡しながら生きてきました。
だから私が生命について感じるのは、「生命は美しい」という感想よりも、むしろ「よくここまで続いてきたものだ」という深い敬意に近い感覚です。
近年、私は「美」という言葉を、芸術的なセンスや感覚の問題としてではなく、生命全体の調和と繁栄を感じ取る能力として捉えるようになりました。
・経済的な覇権も効率的かもしれない。
・情報による支配も効率的かもしれない。
・軍事的な覇権は効率的かもしれない。
しかし、それは本当に生命を豊かにする方向なのでしょうか?
世界全体の繁栄へつながるのでしょうか?
この問いは、単純な善悪だけでは判断できません。
だからこそ人類は、「何が生命を育み、何が生命を損なうのか」という視点から、美という価値をあらためて見つめ直す必要があるのです。

芸術は、人々に「美を学びなさい」と説教するものではありません。芸術はただ、人間の心を深く表現します。そして、その表現を通じて、生命がどのような姿で現れてくるのかを私たちに示してくれます。
愛されたい。
認められたい。
生き延びたい。
所有したい。
復讐したい。
人間の心に現れるさまざまな感情や欲求は、生命がそれぞれ異なる方向へ伸びようとする力の表れでもあります。その姿を見つめるとき、私たちは驚かされます。なぜ人の心は、これほどまでに多様で、美しく、ときに愚かなのだろうか、と。
だから、人間の心を観察することは、生命が何を求め、どこへ向かおうとしているのかを観察することへとつながっていきます。

創作を通じて心の観察を深めた芸術家たちは、しばしば生命そのものへの敬意へと到達しているように見えます。
・紫式部は、人間の心の複雑さを見つめ続けました。その結果、人を単純な善悪で裁けなくなりました。彼女が描いた「もののあわれ」は、失われゆく生命への深い愛惜です。
・ストウ夫人は、奴隷たちの苦しみに向き合いました。その結果、人間の尊厳を描き出しました。彼女の作品には、傷つけられる生命への共感があります。
・ゲーテは、自然を観察しました。その結果、自然を単なる物質の集合ではなく、生きた全体として捉えるようになりました。そこには、変化し続ける生命への賛美があります。
表現は異なっていても、その視線は共通しています。それは生命を理解しようとする視線であり、生命そのものへの敬意へ向かう視線です。

エスプリデッサンのいう美とは、単なる芸術的センスではありません。それは生命の繁栄に向かう動きそのものを意味しています。
なぜ美・善・真の中で、美を最上位に置くのでしょうか?
それは、心の観察を深め、生命を深く見つめていくと、最終的に生命が生きようとする力そのものへの敬意が生まれるからです。
・人は自由を求めます。
・幸福を求めます。
・自己実現を求めます。
しかし、さらに深いところでは、それらを支えている生命そのものへの感謝と敬意へと導かれていきます。

人は、死を目前にしても愛する者をいたわることができます。
鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ 柿本人麻呂
(鴨山の岩を枕にして死んでいく私であることを知らないで、
妻は今も家で私を待ち続けていることだろうか)
彼が残した辞世の歌が、千年以上の時を超えてなお人々の心を打つのは、その奥に生命への深い愛情が息づいているからでしょう。
エスプリデッサンが語る美意識は、静止した美しさではありません。生命が自らを存続させ、成長させ、未来へ受け渡そうとする営みそのものへの敬意です。
芸術家は人々に「花は美しい」と教えたいのではありません。生命がここまで到達するために積み重ねてきた長い歴史と努力に目を向けてほしいのです。その視点を持つとき、人は自然に美を感じ始めます。
美は教えられるものではありません。生命への理解が深まったとき、自らの内側から静かに芽生えてくるものです。
生命は儚い。
生命は傷つく。
生命は変化する。
しかし、それでも生命は成長し続けてきました。
エスプリデッサンが語る「生命の繁栄」とは、その長い営みへの敬意であり、その営みを未来へ受け渡そうとする意志でもあります。それこそが、エスプリデッサンの考える美の本質なのです。
