不純な感覚を備えて不正を働く人間ほど厄介であり、恐ろしい存在はないという真実を私たちは理解すべきです。その本当の恐ろしさは、不正行為そのものよりも、彼らが不正を隠蔽しようと周りを巻き込みながら延々と続ける愚策・妄断・偽報から進行する社会システムの劣化です。
悪人たちは群れをなして不正を行い、誰一人として責任を取ろうとしない極めて危険な社会体制・経済制度を作り上げてしまう。そのような国家は、高度科学施設や研究施設の重大事故には対処できません。
にもかかわらず、学術界における政治経済の研究は、権力のある悪人たちの不正やその悪影響を解明する努力を怠ったまま、経済低迷に関する原因と結果の因果関係を説明しているが故に力強さに欠けます。権力者に都合の良いことばかりを唱える御用学者(真のふりをした偽)すら存在し、マスコミに姿を現して、大げさなパフォーマンスで人々を迷わせます。
これでは、中世期、疫病や感染症が大流行しても、その根本原因が分からず、治療ができずに途方に暮れた医者たちと何ら変わりはありません。
私たちは芸術的な表現を通じて、「法の樹木」に寄生する汚職人らの実態、経済動向、国民の生活などに関心を払い、「健全なルール制度により、平等で自由な暮らしが保証されているか?」を確かめてみるべきです。
私たち国民は、国会での燐として分かりやすい議論を望んでおり、国民から成果を求められない政治体制では、民主主義を貫くことはできません。
民主的な投票により、私たち国民が政治家を選出して強い権限を与える以上、その後の活動が正しく行われているかを私たちは当然にチェックする必要があります。民主主義では民意を反映する国会議論と政策運営が極めて重要であり、多数派になった政治家たちが国会を通じて何をやってもかまわないという訳ではありません。
その一方、未知の疫病などに関する国会議論や政策判断に絶対的な正解があるわけではなく、その効果や成否は、時間が経たないと分からないものです。
だからこそ、行政のプロセスを記録した公文書の保管や国民への説明責任が必要になります。信頼できる記録が残っていることが国家運営の評価には不可欠であり、適正に情報公開されることで、芸術家は社会の営みや人々の暮らしをより鮮明に表現し、政治家に結果責任を求めつつ、政策修正の糸口を作れるようになります。
なぜエスプリデッサンでは、美しい芸術の創作に取り組むことを重視するのでしょうか?それは今の人々の暮らしや社会の真実を表現し、心のメカニズムを正常に働かせることで、私たちは物事の何が正常(調和)で何が異常(不調和)なのかをより鮮明に感じ取れるからです。
人の心の調和は美・善・真から生まれるものであり、それらの価値を真摯に悟ることで、私たちは3つの大義務を感じるはずです。
◆生命を繁栄に導く大義務
人々の高貴な美意識が、「美しい芸術」を発展させる中で、人々の道徳観が養われる。
◆世界を平和に導く大義務
人々の豊かな道徳観が、「善い哲学」を発展させる中で、法の精神が作られる。
◆文明を発展させる大義務
人々の抱く純粋な法の精神が、「真の科学」を発展させる中で、専門家の倫理観を確かなものにする。
これら3つの大義務は、私たちの美意識が主導する普遍妥当なものです。
私たちの美意識は、地球の姿や人々の行為が美しいことを願い、地球上のすべての生命を繁栄に導くために、人間社会のあり方を正そうとします。この美意識による「芸術的な表現」を通じて、国家の営みをチェックし、法の権威、行政の公正さ、生活環境の安全を自分たちの手で守っていく必要があります。
人々の洗練した芸術表現が善い哲学を導き、善い哲学による正しい道理が科学の健全な発展を支える。人々の奥ゆかしい美意識が原点となって道義ある議論を進める中、良質な政治家を選んで国を治める。それが本当の意味で、国家の憲法が掲げる主権在民と言えるものではないでしょうか?
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