エスプリデッサンでは、美しい芸術の推進に取り組みます。この美しい芸術とは、「生命の繁栄に貢献する自己表現」を意味します。
美しい自然や人の美しい行為を尊重して大切にすること(あるいは、醜い行為を批判すること)は、長い目で見ると、自身の生存欲求を満たしたり、子孫の繁栄を保証することにつながるからです。
技術編で取り上げた通り、国家制度を悪用する醜の勢力は、醜い芸術の創作を通じて、「善と悪の戦い」という構図を意図的に作り上げ、広く宣伝することがあります。
よって、多くの芸術作品の中で表現されている暴力的な善悪について、私たちは美の観点から再評価を行う一方、芸術の在り方をよく吟味してみる必要があります。そうすれば、国家間レベルで生じる善悪の戦いという構図自体が、ある一時代の考え方でしかないナンセンスなものとして終焉を迎えるものとなるでしょう。
国家による善悪の戦いが終焉を迎える理由は、、
法制度そのものを否定する訳ではありませんが、国家における法律の枠組みは、醜い勢力の不正により、壊れているか、緩んでいるか、あるいは脅威にさらされています。
国家のルールが主な根拠となり、善悪を規定するような現代社会にて、その根底となる法律制度を美意識の欠落した醜い勢力が悪用しているようでは、世界を正しく導く力が消えてしまうからです。
また、美(生命の繁栄)の立場から捉えると、数え切れないほどの野生動物たちの「命」を爆撃に巻き込み、海・草原・川・森・山・湖などの生態系を破壊してしまうような戦争は、いかなる大義名分があろうとも許されないからです。
地球上の個々の種は、死を恐れ生存したいと願いながらも、子孫を残すために自己犠牲を発揮し、それぞれが個性的に進化する中で、全体としての生態系を作り上げ、結果として美(生命の繁栄)に貢献しております。
仮定の話として、ライオンやイルカや鷹が高度に進化したとします。そして、自分たちの縄張り争いを起こし、善だと悪だとか騒ぎ立てた挙句に、他の生き物たちを争いに巻き込む形で殺傷し、生態系を破壊し始めたら、私たち人類はどう対応すべきでしょうか?
当然、看過できないはずです。自然界はバラバラに成り立つ生き物の集まりではなく、それぞれの命が相互に影響しあう「関係の網」としてかろうじて成り立っているからです。